LOGIN二人の掛け合いを見ていると、先程までの重苦しい空気が嘘のように風通しが良くなっていく。
湊も、肩を揉まれていた姿勢のまま、微かに肩を揺らして笑い声を漏らした。「詩織さんの言う通りだ。腐った根を取り除いた後の土壌改良は、一刻を争う。……書類は後で書斎に運んでおいてくれ。必ず今日中にサインする」「了解。じゃあ、私たちは本社の法務部に戻るわ。征司、行くわよ。運転手よろしく」「へいへい、女神様には逆らえませんって」 嵐のように現れ、嵐のように去っていく二人。 閉まった襖を見つめながら、湊が小さく息を吐いた。「……騒がしい連中だが、不思議と悪くない」「ええ。頼もしい家族が増えたわね」 揉みほぐしていた手を離すと、湊が振り返り、その大きな手で私の手首をそっと掴んだ。「……来週、少しだけ予定を空けておいてくれないか」 引き寄せられるままに身体が傾き、湊の広い肩口に額が触れる。真琴が指を鳴らすと、控えていたスタッフが、数枚の分厚いパネルとタブレット端末をテーブルの上に広げた。「実は今日、皆様にご意見を伺いたい案件がございまして」 パネルに映し出されたのは、一面を埋め尽くす真っ白な薔薇のアーチ。スワロフスキーのシャンデリアが何層にも重なり、光の海を作り出しているような、圧倒的な豪華さを誇る披露宴会場のパース図だった。「来月、女優の佐倉レイナ様が挙げられる結婚式のプランですの。テーマは『クリスタル・スワン』。……佐倉様のご実家と、新郎様である代議士の御家系の格式に恥じないよう、最高級の白薔薇を三万本用意いたしました」 夫人たちから、ほう、という感嘆の溜息が漏れる。「まあ、なんて美しい……」「これなら、各界のVIPをお呼びしても見劣りしませんわね」「白鳥さんのブランドらしい、本当に品のある空間だわ」 称賛の嵐の中、真琴はゆっくりとこちらに顔を向けた。 氷のように冷たい、挑戦的な視線が交差する。「茅野さん。……現場のプロフェッショナルであるあなたから見て、このプラン、いかが思われます?」 サロンの空気が、一瞬にして静まり返った。 夫人たちの目が、面白がるようにこちらに突き刺さる。 どうせ、粗探しなんてできないでしょう。この完璧な空間美に、庶民の口出しする隙なんてないのだから。 そんな無言の圧力が、肌をジリジリと焦がす。 ゆっくりと息を吸い込み、目の前に広げられたパネルに視線を落とした。 たしかに、美しい。予算を度外視した、夢のような空間だ。写真映えという点では、これ以上のものはないだろう。 けれど。 タブレットの画面をスワイプし、会場の平面図と進行表のラフに目を通した瞬間、頭の中で『現場の時計』がカチリと音を立てて回り始めた。 装飾の配置。ゲストの導線。スタッフの動くスペース。 図面の上に、仮想の新郎新婦とゲストの姿が浮かび上がる。 プロとして何百回と繰り返してきた、脳内シミュレーション。「&he
役員会議室の重苦しい空気を切り裂くように響いた、凛とした宣戦布告。 あの日、百合の香水と共に残された言葉が、まだ鼓膜の奥にこびりついている。 数日後。 足を踏み入れたのは、都内の一等地にある歴史ある洋館を改装したプライベートサロンだった。 旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』。その名にふさわしい、磨き上げられた寄木細工の床と、天井から下がるクリスタルのシャンデリアが、初夏の柔らかい日差しを反射して眩しく瞬いている。 用意されたベルベットのソファに腰を下ろすと、ふわりとダージリンの渋みと、焼き菓子の甘いバターの匂いが鼻先を掠めた。 隣に座る湊のスーツの袖が、そっと二の腕に触れる。上質なウール越しに伝わる高い体温が、ドレスの下で粟立とうとする肌を温めるように押しとどめていた。「まあ。こちらが、湊様の……」 正面に座る着物姿の夫人が、扇子で口元を隠しながら、値踏みするように目を細めた。 サロンに集められているのは、政財界の重鎮を夫に持つ夫人たち。白鳥真琴が主催する、新作ドレスのお披露目を兼ねたお茶会という名目の、実質的な顔合わせの場だ。 向けられる視線は、一見すると穏やかな微笑みに包まれている。けれど、その奥にあるのは明らかな好奇心と、真綿で首を絞めるような冷ややかな品定めだった。「茅野朱里と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」 膝の上で指先を重ね、一番綺麗に見える角度でゆっくりと頭を下げる。 ブライダルサロンで毎日繰り返してきた、完璧な営業スマイル。頬の筋肉を引き上げ、声のトーンをワントーン高く保つ。 顔を上げると、隣の夫人がティーカップの縁を指でなぞりながら、ふうとため息をついた。「湊様も、随分と可愛らしいお嬢さんをお選びになったのねぇ。……華枝様も、さぞ驚かれたでしょうに」「ええ、本当に。九龍家の奥様といえば、代々、それなりのお家柄の方ばかりでしたから。……現場でお仕事をされているなんて、新鮮ですわね」 言葉の端々に、チクリと刺さる棘。
逃げちゃダメだ。 華枝が託してくれた企画。そして、湊がこれほどまでに信じてくれている。 ここで怯んでしまえば、本当にただの「CEOに守られるだけのお人形」になってしまう。 奥歯を噛み締め、ゆっくりと立ち上がる。 足の震えは、もう止まっていた。「……お言葉ですが」 自分の声が、驚くほど冷静に、会議室の隅々まで通っていく。「格式や家柄で、結婚式が成功するわけではありません。大切なのは、新郎新婦が何を誓い、ゲストに何を伝えたいのかを形にすることです。……私は現場で、何百組ものカップルを見てきました。その経験は、血筋よりも確かなものだと自負しております」 初老の役員が、顔を真っ赤にして睨みつけてくる。「現場の小間使いと、事業の責任者は違う! 経営の何がわかるというのだ!」「経営の数値を作るのは、結局のところ、現場で生み出される一つの結婚式の質の積み重ねです。……やらせていただけますでしょうか」 一歩も引かずに、真正面から見据える。 会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。 賛同の空気ではない。圧倒的な「異物」に対する、戸惑いと反発の沈黙。 このまま平行線を辿るかと思われた、その瞬間だった。 カチャリ、と。 秘書が小さく頭を下げ、扉の隙間から来客を告げた。白鳥ブライダルとの提携候補として、後半の議題から招かれていた人物らしい。だが、その登場は、あまりにもこちらの空気を読んだようなタイミングだった。 全員の視線が、入り口へと一斉に向く。 そこには、楚々とした白いスーツに身を包んだ、一人の女性が立っていた。 ツンとした、それでいてどこか高貴な百合を思わせる香水の匂いが、流れ込んできた風に乗って鼻腔をくすぐる。 完璧にセットされた黒髪、真珠のような白い肌。そして、その美貌に張り付いた、氷のように冷たく、挑戦的な微笑み。 旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』代表。 かつて、湊の婚約者候補として名が挙がっていた女性。
「華枝様の遺志とはいえ……具体的に誰が旗振り役を務めるというのですか」「現在の婚礼部門の責任者たちは、皆一様に及び腰だ。このような大掛かりな改革、失敗すれば首が飛ぶ」 矢継ぎ早に飛ぶ懸念の声。 湊は、一つ息を吐くと、スクリーンを指し示した。「企画書の最後のページに、華枝様からの『指名』がある」 スライドが切り替わる。 そこには、たった二行の短いメモが書き殴られていた。『この企画は、茅野朱里に任せなさい。 あの子は血筋ではなく、人の心で式を作れる子です』 ――え。 頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。 自分の名前が、スクリーンに大きく映し出されている。 心臓が、早鐘を打つ。手足の先から一気に血の気が引き、次の瞬間にはカッと顔中が熱くなった。 華枝様が、私を。 あのお茶の産地を当て、掛け軸の意味を必死に読み解いた日。「度胸だけはあるようだね」と笑ってくれた、あの日。 華枝は、あの時からずっと、試していたのだ。ただの飾り物ではない、本物のプランナーとしての腕を。「なっ……馬鹿な!」 旧反対派の役員が、勢いよく立ち上がった。「茅野朱里だと!? 彼女はたしかに現場の経験はあるかもしれない。だが、九龍の看板を背負う新規事業の責任者など、正気の沙汰ではない!」「その通りだ。彼女はそもそも、契約から始まった関係だろう。世間ではまだ、CEOの愛人上がりだという目で見られている。格式が違いすぎる!」「伝統ある九龍の婚礼を、どこの馬の骨とも知れない平民に任せるなど、華枝様もご乱心だったとしか思えない!」 会議室は、あっという間に怒号と非難の渦に包み込まれた。 投げつけられる言葉の一つひとつが、紙の端で指先を切るように、じわじわと痛みを残していく。 膝の上で組んだ手が、ガタガタと震え出す。 怖い。 これだけの重圧と、悪意に満ちた視線を一身に浴びて、立っていられる自信がない。 華枝の想いは嬉しい。けれど、私にこの巨大な船
湊の斜め後ろ、議決権を持たないオブザーバー席に腰を下ろす。婚礼部門の外部アドバイザー候補として、私の同席は事前に通知されている。それでも、膝の上で組んだ両手は、無意識のうちにきつく握りしめられていた。 正面に座る初老の男が、手元の資料を捲りながら、隣の役員とヒソヒソと囁き合っている。『……婚礼事業のテコ入れとはいえ、なぜあのような小娘を同席させる』『CEOの肝煎りだそうですよ。例の、スキャンダル騒ぎになった……』『契約から始まった関係だろう? 九龍の正妻に据えるには、いささか家柄が……』 囁き声は、意図的にこちらまで届くように調整された、質の悪い嫌味だ。 古い血筋主義を掲げる、遠縁の親戚筋や旧反対派の役員たち。九龍剛造という大敵が去った後も、この一族にはまだ、時代錯誤な選民意識の残滓がこびりついている。 奥歯を噛み締め、口角をミリ単位で引き上げる。 ブライダルサロンで気難しい親族を相手にしてきた経験が、こういう時に役に立つ。どれだけ腹の底で煮えくり返っていようと、顔には一切出さない。プロの笑顔という名の鉄壁の仮面だ。「――定刻だ。始めよう」 会議室の空気を一刀両断するように、湊の声が響いた。 ざわめきが波を打って静まる。 湊は手元のファイルを広げ、冷徹なCEOの顔で全員を見渡した。「本日の議題は、当ホテルの婚礼事業の再建だ。予約表を見ればわかる。富裕層のキャンセルは先月比で倍、成約率も戻っていない。……九龍の名前だけで選ばれる時代は、もう終わった」 数字を突きつけられた役員たちが、気まずそうに視線を逸らす。紙を捲る音だけが、数秒遅れて室内に落ちた。「これを覆すための、決定的な一手が必要になる」 湊はそう言うと、テーブルの中央に置かれたプロジェクターのスイッチを入れた。 背後の巨大なスクリーンに、一枚のスライドが映し出される。 古びた和紙のような背景に、流麗な筆記体で記されたタイトル。『Imperial Vows』
淹れたてのコーヒーから立ち上る、深く香ばしい湯気が鼻先をくすぐる。 タワーマンションの最上階。全面ガラス張りの窓の向こうには、朝の光を浴びて白く霞む東京のビル群がどこまでも広がっている。 ダイニングテーブルの向かい側では、九龍湊がタブレット端末の画面に視線を落としながら、静かにマグカップを傾けていた。 完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。濃紺の生地が、鍛え抜かれた肩のラインに吸い付くように馴染んでいる。普段ならこのまま颯爽と玄関へ向かうはずの男が、今日はなぜかネクタイを緩めたまま、手元の画面をスクロールする指先を不規則に止めていた。「……どうかした?」 尋ねると、タブレットを伏せて視線がこちらへ向く。 射抜くような鋭さはなく、どこか考え込むような、落ち着かない色が黒い瞳の奥に揺れていた。「いや」 短く返し、湊は緩んでいたネクタイに指をかける。だが、結び目を作る手つきが珍しく覚束ない。滑りの良いシルクの生地が、指先からするりと抜け落ちた。 見かねて席を立ち、椅子の傍らへ歩み寄る。「貸して。……相変わらず、変なところで不器用なんだから」 手を伸ばしてネクタイの端を掴むと、湊は大人しく顎を上げた。 少しだけ荒い息遣いが、前髪を揺らす。シトラスと微かなムスクが混じった、体温を含んだ匂いがふわりと漂ってきた。 結び目を整えながら、首元に触れるか触れないかの距離で指先を動かす。スーツ越しでも伝わってくる高い体温に、こちらの指先までじわりと熱を帯びていくようだ。 ふと、視線を感じた。 顔を上げると、湊の目が手元――正確には、左手の薬指のあたりをじっと見つめていることに気づく。 その熱を帯びた眼差しに、心臓がトクン、と大きく跳ねた。 過去の契約の傷跡を乗り越え、共に未来を歩むと決めたばかりだ。言葉にしなくても、隣に並ぶ男が何を考え、何を準備しようとしているのか、その微かな焦燥感から痛いほど伝わってくる。「……きつく締めすぎた?」 わざとらしく首を傾げてみせると、湊は







